岩手ブルーベリーの会
会長 藤根 研一
宮沢賢治が花巻農民の資質向上を目指し、農学校を退職して始めた私的な農民塾の名前が「羅須地人協会」であります。
この名前は「日本ブルーベリー協会」のように分かりやすい名前でないため、研究家の中でも解釈は分かれるものですが、私は「修羅のように大地と人の心を耕し須弥山の人となる協会」ではなかったかと考えています。
宮沢家の別宅だったこの農民塾の建物は、奇跡的な道程をたどり、今花巻農業高校に現存しています。
その発見は、今から50年前。花巻空港が農業高校の農場予定地であった場所で見つかりました。
「賢治先生の魂は生きている。」当時、これを改めて実感したものでした。
「羅須地人協会」と「日本ブルーベリー協会」の二つの協会は、名前は違っても、基本理念は同じだと私は思っています。
学び合い、高め合い、人間的にも経済的にも豊かになることを目指しているからです。その理念を表現してくれた先般の福島県・三春町のシンポジウムは、素晴らしいものでした。
歴史とは面白いものだとつくづく思います。
賢治先生が「羅須地人協会」の活動に全力で邁進し始めた頃、世界を飢餓から救ったとたたえられる同時代の育種家が、秋田県大曲の陸羽支場から、現在の盛岡市本宮にあった岩手県農事試験場に赴任し、「麦」の育種を始めています。
この人はまた冷害県岩手のために、宮沢賢治が極力勧めた米「陸羽132号」の育種にも関わっていました。
この偉人は、世界の小麦育種に燦然と輝く小麦「農林十号」を作った「稲塚権次郎」さんです。
富山県が生んだ世界的英雄ですが、伝記を書いた千田篤さんは、二人(賢治と稲塚先生)の接点はあったといっています。
彼が交配した「ターキーレッドXフルツ達磨」の系統は、今世界の小麦の九割の先祖と言われています。
「NORIN TEN」と呼ばれたこの種は、京大の木原均博士の勧めもあり、アメリカ進駐軍の農業顧問だったサーモン博士の眼にとまり、ワシントン州にいた農務省のフォーゲル博士に送られ、地元の品種ブルボアやアルベート種と交配され、従来200Kg前後の収量の7倍にも当たる驚異的な高収量1490Kgを記録した「ゲーンズ」「ニューゲーンズ」として開花し、「世界のパンかご」と言われるアメリカ小麦の元になり、世界を飢餓から救ってくれたのです。
加えて、この種はメキシコで育種を指導していたボーローグ博士に送られ、その子孫達が飢餓線上にあったインドやパキスタンに送られ、「緑の革命」と言われる西南アジアの食糧危機を未然に防いだのです。
この功績でノーマン・ボーローグ博士はノーベル平和賞を受賞しています。そして彼は生涯「稲塚権次郎」を称えてきました。
私がブルーベリー栽培に関わるきっかけとなったのは、岩手大学教授で農場長でもあった横田先生との長いお付き合いの影響が大きいのですが、もうお一人「日本ブルーベリーの父」と呼ばれた岩垣先生に会った事でした。
引き合わせてくれたのは、当時岩手県の果樹専技「故阿部忠志」さんでした。同席したのは宮城県の吉良果樹専技でした。
名誉教授となっていた岩垣先生からお願いされた事は、36年前ながら横田先生との出会いと同じく私はよく覚えています。
岩垣先生は「あなたのような古いりんご農家に生まれた果樹のエキスパートこそ、是非東京農工大学に行ってブルーベリーを見て下さい。そしてその普及に努めて下さい」という事でした。
愛弟子でもあった、現日本ブルーベリー協会会長の石川先生の話もその時に出て、私はお二人が編集された「ブルーベリーの栽培」(昭和59年度版)を、今でも大切に持っています。
これのようなめぐり合わせが歴史の面白さかと思います。
しかし、その本に書かれてある横田先生の切なる願いである「盛岡市、八幡平、龍泉洞、平泉、花巻温泉など県外から観光客が集まる場所に産地を作りたい」という思いは、あれから30年以上も経つのに、岩手では実現していないというのが私の実感です。
<稲塚権次郎先生紹介>
明治30年 | 富山県東砺波郡生まれ。 |
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明治44年 | 富山県立農学校入学、ダーウィンの進化論などを学ぶ。 |
大正07年 | 東京帝国大学農科大学農学実科卒業。 |
大正09年 | 農商務省農事試験場陸羽支場へ赴任。「陸羽132号」などの育成に従事。 |
昭和08年 | 「小麦栽培法の改良」刊行。 |
昭和10年 | 「小麦農林10号」が完成。岩手・山形両県の奨励品種となる。その後「小麦農林6号」「同14号」「同27号」など8品種の育成に従事。 |
昭和21年 | 進駐軍農業顧問サーモン博士が「小麦農林10号」を米国に持ち帰り、地元の小麦と交配され「ゲインズ」「ニューゲインズ」が育成される。 |
昭和31年 | ボーローグ博士が「小麦農林10号」の遺伝子を継ぐメキシコ半矯性小麦を誕生させる。 |
昭和40年 | 大凶作になったインド、パキスタンにメキシコから半矯性小麦が送られ、収穫が驚異的に増加した「緑の革命」始まる。 |
昭和43年 | ボーローグ博士「小麦農林10号」=「NORIN TEN」について初めて講演。 |
昭和44年 | 水稲・小麦等の育種功績により「農業技術功労賞」「並河賞」受賞。 |
昭和46年 | 「緑の革命」の源となった「小麦農林10号」の育成功績により「勲三等瑞宝章」授与。 |
昭和55年 | 新品種農林登録50周年記念大会で農林水産大臣賞受賞。 |
昭和63年 | 急性心不全にて他界。91歳。正五位に叙せられる。 |
平成02年 | ボーローグ博士が権次郎の生家を訪問。南砺農業会館にて講演。 |
筆者紹介
藤根研一
岩手県立花巻農業高等学校卒業後、日本大学農獣医学部農学科を卒業し、岩手県に勤務(畑作園芸課果樹花き係技師)。農村振興課果樹専門技術員、農産物改良種苗センター園芸部長、岩手県立農業大学校(果樹専攻)助教授、水沢農業改良普及センター技術主幹兼地域指導課長を歴任し退職。
現在、「岩手ブルーベリーの会会長」「ブルーベリー栽培士(日本ブルーベリー協会認定)」宮沢賢治研究家。農民文学者。
著作:
○宮沢賢治スピリッツ・T「羅須地人協会の旗」1992
○ 同 ・U「農民芸術概論の風」1996
○ 同 ・V「グスコーブドリの歌」1999
○ 同 ・W 農業技師「宮沢賢治」2003
○ 同 ・W 農業技師「宮沢賢治」(再版)2008
○ 同 ・X「宮沢賢治と花巻農学校」2014
○「普及員論」−若きグスコーブドリ達へ1996
○「横田先生と世界に学ぶブルーベリー栽培」2005
○ 同 (再版)2007