岩手ブルーベリーの会
会長 藤根 研一
『ブルーベリー全書』(日本ブルーベリー協会編:創森社)の記述にもとづいて歴史をひもとけば、アメリカ連邦農務省のコビル大先生によって、(ブルーベリーの)本格的研究が始まったのが1908年とすれば、「宮沢賢治」は当時川口小学校の6年生でした。
その後盛岡中学校に進学しますが、年譜によると山登り好き、鉱物好きの生徒であまり勉強に熱心ではなかったというのが、あらゆる伝記に共通した人間像として描かれています。
宮沢賢治が地質や土性と植物の相関について興味を持って取り組んだのは、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)の2年生の時、全員で行った「盛岡附近地質調査報文」という研究をまとめる過程で、地質や土性と植物との相性を初めて深く認識したというのが、賢治研究家としての私の考えです。
(賢治は)農業というものが、地質や土性と深い関係にある事をよく認識した農学得業士(現農学士)であります。加えて「日本土壌肥料学会」の初代会長となる関豊太郎の愛弟子で、大学卒業後も研究生として「稗貫郡地質・土性調査」を実質として担ったたまものと言える、当時の岩手では最高峰の土壌学者でもありました。
詩人、童話作家として有名になる以前の素顔は、断固たる農学者です。
岩手県盛岡市は、今日本のりんご消費者から全く理解はされておりませんが、本州で最も古い歴史をもつりんごの栽培地です。
しかし、現在の栽培面積は、青森の十分の一、長野の五分の一であり、りんごの供給力から見れば、津軽・信州りんごほどには消費者には知られておりません。
宮沢賢治が同級生達と研究調査した盛岡りんごの発祥地「中野」は、母岩が花崗岩であり、その中に長石を含むため、石灰欠乏の害がなく、労せずして良いりんごが取れるのだと「地質調査報文」には書いています。
宮沢賢治が大好きだったりんごは、当時適地適作の最たるものだったのです。
しかし、反面岩手の土壌帯の大宗を占める北上川西岸の大部分の土壌は、酸性土壌であり、何を作るのにも石灰が必要な事を、彼は卒業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」でも深く認識しなければなりませんでした。
花巻農学校教諭という安定した職業を投げ捨ててまで、「羅須地人協会」の活動に尽力したのは、この自らが寄って立つ「地質・土性」を余りに知らずに生きる農民達を少しでも豊かにしたいという思いからの行動でした。
岩手県がこの酸性土壌を生かし、県花にこの花を持つ長野県をしのいだのが「りんどう」という花です。
今年の花巻は、「銀河鉄道の夜」に出てくるこの花の子孫達を「賢治ブルー」という名で大々的に売り出そうとしています。
その発端は、長野生まれの吉池先生が、アメリカのコビル大先生のように、岩手県に自生している株を集め、その特性を見た上で交配し、「りんどう岩手」を作った事から始まっています。
また岩手県北の二戸市では、チャンドラーという世界最大果のブルーベリーの苗木を大量導入し、五百円玉級のものを「カシオペアブルー」という名の贈答品を作り、三十粒五千円で販売しています。
歴史に「もし」という言葉は許されませんが、宮沢賢治がもしブルーベリーという果実を知っていたなら、吉池先生と同じように酸性土壌を生かす希望の果実として、力の限り普及していたに違いないと、横田先生の努力を長い間、間近に見た者としては考えています。
花巻農学校教諭の時、シベリアに教え子の就職依頼の旅に行った時、ブルーベリーの仲間であるコケモモ「フレップス」は見ています。
「トマト」や「レタス」や「イチゴ」など当時は全く、岩手や花巻で作られていない作目の種や苗を手に入れて作るほど、新しい作目に現状打開の希望を託した宮沢賢治が、ブルーベリーに出会っていれば、偉大なる土壌学者、農学者として、私達以上にその栽培普及に尽力しただろうと私は思っています。
その希望の風を横田先生や岩手大学農学部の教官の姿に感じるゆえ、「岩手ブルーベリーの会」は今も元気に活動できるのです。
<吉池貞蔵先生紹介>
昭和6年 | 長野県生まれ。 |
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同30年 | 千葉大学園芸学部卒業。(財)日本園芸生産研究所勤務。 |
同31年 | 盛岡農業高校教諭。昭和38年3月まで。 |
同38年 | 岩手県園芸試験場に技師、主任専門研究員、南部分場長、野菜花き部長、場長として勤務。この間、主としてりんどうの育種と栽培、すいせんの球根生産等に関する研究に従事。 |
<横田清先生紹介>
昭和11年 | 長野県生まれ。 |
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昭和35年 | 信州大学農学部卒業。長野県園芸試験場技師としてりんご栽培担当。 |
昭和51年 | 岩手大学農学部果樹園芸学講座助教授。りんごに加えてブルーベリーの栽培研究を開始。 |
昭和52年 | 農学博士(東北大学)。 |
平成 2年 | 同大学教授、附属農場専任。後附属農場長併任。 |
平成 3年 | 在外研究員としてNZ DSIRに出向。 |
平成 6年 | 日本ブルーベリー協会発足とともに副会長就任。(平成17年10月退任)。 |
平成14年 | 定年退職、同大学名誉教授。 |
平成18年 | 東北地方へのブルーベリー栽培導入で農民文化賞受賞。 現在、一般社団法人日本ブルーベリー協会顧問、岩手ブルーベリーの会顧問、岩手林業且謦役、蔵王ブルーベリー農園、わらび座ニコニコ農園及び那須ダイアナガーデンにおいて栽培指導。 |
宮沢賢治が学んだ「旧盛岡高等農林学校本館」(現岩手大学農業教育資料館)
――宮沢賢治研究家はいっぱいいますが、この学校の学問を基点として書く人がほとんどおりません。しかし、彼の詩や童話には、この学校で学んだ学問の軌跡が必ずといっていいほどあります。私は、彼が教鞭をとった学校に学び、農学部に行ったため、彼の学問を作品の中に見るのでしょう。――(藤根氏談)
筆者紹介
藤根研一
岩手県立花巻農業高等学校卒業後、日本大学農獣医学部農学科を卒業し、岩手県に勤務(畑作園芸課果樹花き係技師)。農村振興課果樹専門技術員、農産物改良種苗センター園芸部長、岩手県立農業大学校(果樹専攻)助教授、水沢農業改良普及センター技術主幹兼地域指導課長を歴任し退職。
現在、「岩手ブルーベリーの会会長」「ブルーベリー栽培士(日本ブルーベリー協会認定)」宮沢賢治研究家。農民文学者。
著作:
○宮沢賢治スピリッツ・T「羅須地人協会の旗」1992
○ 同 ・U「農民芸術概論の風」1996
○ 同 ・V「グスコーブドリの歌」1999
○ 同 ・W 農業技師「宮沢賢治」2003
○ 同 ・W 農業技師「宮沢賢治」(再版)2008
○ 同 ・X「宮沢賢治と花巻農学校」2014
○「普及員論」−若きグスコーブドリ達へ1996
○「横田先生と世界に学ぶブルーベリー栽培」2005
○ 同 (再版)2007